そして、無言で帰り寮に着いた。手を離して鍵を開けて部屋に一歩は行ったが篭った熱
が二人を出迎えた。その熱を逃がす為に夕香は窓を開けた。自然と月夜に背を向ける形に
なる。月夜はそれを狙っていたようにひとつの濡れ綿を夕香の項にくっつけた。
「ひゃっ」
 思わず肩を竦めた夕香を見て月夜はくすくす笑っている。項に貼り付けられた綿を取っ
て夕香は月夜をにらみつけた。
「何すんのよ」
「別に、着せ綿だけど?」
「着せ綿?」
 手の内にある綿に目を向ける。月夜はどこからともなく菊を取り出してその花がある部
分に付けられた白い綿をはがして見せた。
「重陽の節句の日にする事だよ。菊から露が出るからその露を綿に染み込ませて置くんだ」
「それで?」
「その綿で肌を撫でると長寿がもたらされる。まあ、お前にはいらないけど、肌も綺麗に
なるといわれてるからな……」
 ひらひらと綿を振って見せて月夜はさびしげに笑った。確かに綿から水気が感じられる。
 長寿を願う物らしいが、何故自分にはいらないのかと考えたがその答えは体が教えてく
れた。いつも忘れているのだが、夕香は天狐の合いの子だ。それゆえにあと何千年かの命
が約されている。
「それならあんたが必要なんじゃないの?」
 自分が持っている着せ綿で月夜の頬を拭った。月夜はその手を払ってぽんと夕香の頭に
手をおいた。するするとその手が下っていく。
「俺が短命で、お前を苦しませるのは分かる」
 ふいに月夜は言った。その声音は低い。いつになく真剣な顔をする月夜に夕香はその黒
い瞳に引き付けられる様に顔を上げた。
「だけど、……だけど、そのときが来るまで、傍にいることを許してくれ」
 そう言うと月夜は首の後ろに回した手でぐっと夕香を引き寄せた。こんなにも彼は力が
強かったのだろうか。いきなりのその言葉に夕香の脳は理解を拒否した。というよりは思
考がなくなった。
 ただ、認識しているのは彼のぬくもりと苦しいほどの圧迫感だった。彼の胸に抱かれて
夕香は何を言ったのだろうとようやく頭を回し始めた。
 要は、月夜は夕香より早く死んで、その後に夕香の事を苦しませるけど、死ぬまで夕香
の隣にいさせてくれ。
 つまり。
 そこまで思考が行って夕香の鼓動は跳ね上がった。顔を紅く染めてどうしようと月夜の
胸に顔を押し付けた。彼の自分より速い鼓動が聞こえる。伝わるぬくもりとその力強い音
に夕香は何かに憑かれたように腕を月夜の背に回して抱きしめていた。
「…………なんで」
 夕香は長い時間をかけてそう言った。頭を抱く月夜の腕がかすかに震えたのが分かった。
否、全身が微かに震えている。その震えが収まるようにと夕香は強く、強く月夜の体を抱
いた。
「なんで、そんな事にあたしの許しが必要なのよ。頭狂った?」
 務めていつもの口調で言って覚悟を決めて月夜を見上げた。見上げたその瞳が一ヶ月前
よりも高い位置にあることに気付いた。
「あたしが死ぬまで死なせないよ」
 それを口にするのに、どれだけの覚悟が必要だったのだろうか。夕香の胸では心臓が大
暴れしている。触れただけで鼓動が分かるほどに強く打っていた。
「……」
 月夜は笑ったようだった。今気付いたがまだ電気をつけていなかった。月夜はまた夕香
を強く抱いてその髪に顔を埋めた。
 その背中が微かに震えている。
 夕香はもしかしてと月夜のほうに顔を向けた。かすかな息遣いと肩が上下している。肩
口が微かに湿ってきている。
「月夜?」
 驚いて呼ぶと月夜は乱暴に体を離して夕香の唇を奪った。触れた頬が冷たく濡れている。
夕香は優しく微笑んで求めてその頬を拭ってやった。
 仕事柄からして、いつ死ぬか分からないのだ。その死に対する恐怖が今初めてこみ上げ
たのだろう。
 幸せな時ほど死は近くに感じられる。だから大切にしたい。
 そんな思いにさせる幸せしか抱けない自分たちの仕事に目を伏せて顔を放した。
 月夜はばつが悪そうに体を離して背を向けた。
 そんな月夜の行動が見えてくすりと笑った。その背中に抱きついて大きな逞しい背中に、
まだ微かに震えている頼りない背中に頬を寄せた。
「大丈夫だよ。ここにいるよ」
 そう声をかけると月夜はかすかにうなずいて振り向いて軽く抱き締めてから夕香の頭を
撫でた。そして夕香の手から逃れて腕で涙を拭って菊の花を二つ取った。
「酒、飲むか?」
 その声が微かに震えている。それに気付かない振りをして頷いた。月夜が二つのグラス
に氷を入れる音が聞こえてきた。そして何かを上げてグラスの中に注ぐ音。そして月夜が
夕香の隣に来たときにはいつもの仏頂面に戻っていた。そのグラスの中には透明な液体と
氷とその上に浮ぶ黄色い菊の姿が。
「菊酒。これも重陽の節句の時に作るもの。まあ、効能と言うか願いはもう言わないでも
分かるよな」
「うん」
 そのグラスを受け取って二人で窓の外に出る。庭とはいえないその狭いスペースにあっ
た大きな二つの石に腰掛けて空を見上げた。
 空は雲なく闇色が続いている。その中にぽっかりと月が浮んでいる。冴えた月が照らす
のは秋風にそよぐ細く脆いすすき。
「綺麗ね」
「ああ」
 二人はもう何も言わずにグラスをカチンと当ててその中身に口をつけた。二人の花見酒
ならぬ月見酒は夜半過ぎまで続いた。



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